図鑑No.22 比叡
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最終更新日:2013/12/19
艦娘図鑑
比叡は金剛型戦艦の2番艦。
金剛がイギリス製だったので、太平洋戦争においては最古の日本戦艦である。
名前の由来は比叡山。
進水:1912年
全長:214,6m(改装後222,0m)
全幅:28,04m(改装後31,0m)
速力:27,7ノット(改装後30,5ノット)
CV:東山奈央
台詞等から見る史実
「金剛」より遅れること10ヶ月。「金剛」の受注により得た技術を元に横須賀工廠にて起工、1912年に進水する。
その後すぐに、ユトランド沖海戦が勃発し、この海戦で巡洋戦艦の脆さが露呈したため第一次改装に着手する。
しかし、1921年にワシントン軍縮条約が成立したため、改装は一旦中断、条約により戦艦1隻が練習艦へと改装されることとなった。このとき金剛型で一番工事が遅れていた「比叡」が練習艦と選ばれた。
練習戦艦となった「比叡」は兵装の撤去により艦内にスペースがあることや、艦隊所属でないためスケジュールに余裕があることなどから御召艦として利用された。
御召艦とは行事や移動の際に天皇や皇族が乗艦する艦のこと。
比叡の自己紹介にも出てくる井上提督とは井上成美艦長。比叡艦長時代を生涯で最も楽しかった時代として、後の海軍省軍務局長時代には、この御召艦時代の「比叡」の油絵を部屋に飾っていた。
艦これの家具にも実装してほしい。
御召艦「比叡」は当時の切符にも描かれたり、写真週報でも報道されるなど、当時の日本海軍を代表する軍艦だったそうだ。
1936年に軍縮条約の期限切れにつき、戦艦として復活のための大改装が行われた。
この工事は大和型戦艦のテストの役割もあり、そのため艦橋構造物は他の艦と違い、大和型戦艦と似た塔型構造になっている。
高速戦艦として生まれ変わった「比叡」は、その後真珠湾・ミッドウェー・ガダルカナルなどの海戦に参加した。
比叡の最後となった海戦は第3次ソロモン海戦。
海戦史上最大の混乱をきたした第3次ソロモン海戦において奮闘。米軽巡「アトランタ」の艦橋に砲弾を命中させるが、その際に探照灯を使用したために米艦隊の格好の目標となり、集中砲撃を受けた。
これにより攻撃能力だけでなく舵をやられてしまい操艦不能の状態に。
復旧作業が行われる中、曳航や近くの島へ座礁させることも検討されたが、夜が明けると共に米軍機の断続的な空襲を受けて被害が拡大。
復旧作業も曳航も不可能であるとして、司令官は自沈を決めた。
当初は退艦を拒否していた西田艦長も、機関室全滅の誤報を受けて総員退艦を命令。
誤報と分かったときには、すでに処分のための雷撃が打ち込まれたところで、比叡はサボ島沖に沈んだ。
この比叡が太平洋戦争における日本海軍戦艦の最初の喪失艦である。
この沈没に際しては、後に元「比叡」勤務員(吉田俊雄)の著作などでも述べられているように「非常に後味の悪いものだった」。
西田艦長は誤報を聞いた後、総員退艦を命じ、自身は比叡と共に運命を共にすると聞かず、部下が数人がかりで無理やり「雪風」に移された。
その後、機関室全滅が誤報であったことを知るが最早手遅れであり、魚雷発射後だった。
また、司令官から処分撤回の命令も出されているがこちらも魚雷発射に間に合っていない。
魚雷は比叡に命中したが、比叡は沈まず、雪風(その他5隻)は一旦現場から退避、6時間後に現場に戻ったときにはそこに比叡の姿はなかった。
誰にも看取られることなく比叡は鉄底海峡に沈んだのが比叡の最後である。
史実を知った上で比叡の台詞を聞くと、
「私、頑張るから」(機関部はまだ生きているから)「見捨てないで」(魚雷処分にしないで)
といった意味であり、まじ涙腺がやばい。
その後のことであるが、生還者の多くは新鋭軽巡「大淀」に配属となる。
乗組員たちは「二度と艦を失う悲しみを繰り返したくない」を一丸の思いとして厳しい訓練に耐え、新鋭艦にありがちな乗組員の錬度不足はなく、戦争末期の劣勢の中でも奮戦を続けた。
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