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【1943年 キスカ島撤退作戦】奇跡の作戦。木村少将の戦術指揮とは

公開日: : 主要海戦・作戦

奇跡の作戦と呼ばれるキスカ島撤退作戦。

キスカ島撤退作戦

キスカ島撤退作戦

 

●概要

1943年(昭和18年)7月29日に行われた日本軍の北部太平洋アリューシャン列島にあるキスカ島からの守備隊撤収作戦

第一水雷戦隊により行われ、旗艦は阿武隈

キスカ島を包囲していた連合軍に全く気づかれず日本軍が無傷で守備隊全員の撤収に成功したことから「奇跡の作戦」と呼ばれる。

 

 

●内容

アッツ島沖海戦などに代表されるアメリカ軍の阻止攻撃により兵力の補給は上手くいかず、アッツ島の戦いでの敗北を受けて、キスカ島にいる守備隊(陸海軍あわせて6,000名余)は完全に孤立した

アッツ島にアメリカ軍が上陸した時点で増援を送ることは地理的にも兵力的にもほぼ不可能に近く、まだ守備隊が戦っていた5月20日にはアリューシャン方面の放棄が決定。まだ敵軍が上陸していなかったキスカ島は守備隊を撤退させることになった

アッツ島も守備隊の撤退が提案はされたが陸海軍間で調整がつかず結局海軍の反対で断念、代わりにキスカ島の守備隊撤退に重点を絞って作戦計画が練られることとなった。

 

第1期

撤退作戦には駆逐艦のような高速の水上艦が夜陰に乗じて行うのが最も効率が良かったが、ソロモン海戦などで多くの駆逐艦を失っており、これ以上の消耗を避けたかった海軍は、水上艦艇による当作戦に消極的だった。

そこで潜水艦隊による作戦を立案。第一潜水戦隊の潜水艦15隻が当作戦にあたった。

しかし、レーダーを始めとするアメリカ軍の哨戒網は厳重であり、当作戦は失敗。結局水上艦艇による撤退作戦に切り替えられることとなる。

 

第2期

潜水艦隊での失敗を受けて、水雷戦隊での作戦行動となった。

ただし、正面から堂々と行えば戦闘となることは目に見えていたので、2つの条件が提案される。

1,この地域特有の濃霧が発生・視界ゼロに近い状況で突入すること

2,電探及び逆探を装備した艦艇がいること

の2つである。

濃霧の発生は、空襲を受けずに済むことが理由であり、キスカのすぐ東側には米軍の航空基地(アムチトカ島)があったため、上空援護のない当作戦中に空襲を受ければ全滅の危険すらあったためである。

また、この当時に濃霧の中空襲が可能な航空機は存在しなかった。

第2の条件は、濃霧の発生は自軍の視界も当然奪ってしまうため、それを補うために必要とされた。当時の巡洋艦・駆逐艦クラスでこれを装備していた艦はほとんどいず、木村昌福少将の要望により、就役したばかりの新鋭高速駆逐艦「島風」を配備した。
(島風は就役当時から二二号電探と三式超短波受信機(逆探)を搭載していた)

 

 

●結果

7月15日に一度はキスカ島への突入を試みるも、霧が晴れてしまったため断念、帰投し好機を待った。

帰れば、また来られるからな」の名言は、この時木村が部下から突入を催促された時に言った言葉である。

手ぶらで帰ってきた木村への批判は凄まじかったが、木村はそれらの非難を意に介さず好機を待った。
(この慎重な行動は木村自身がこの年の2月に参加したビスマルク海海戦の敵空襲を受けた経験から来ていると言われる。上空援護のない状態での空襲は水雷戦隊にとって致命傷だということを、木村は嫌というほど知っていた。)

そして29日に絶好の濃霧が発生。米艦隊が包囲を解いた一瞬の隙を突く形でキスカ島に突入、わずか55分で守備隊員5200名を収容、キスカ島を撤収した

艦隊は7月31日から8月1日にかけて幌筵に全艦無事帰投。気象通報に出した潜水艦もその後全艦無事帰投し、ここに戦史史上極めて珍しい無傷での撤退作戦は完了する。

 

ちなみに後日、既に日本軍がいないことを知らないアメリカ軍はキスカ島攻略のために、艦艇100隻余りを動員、兵力約34,000名をもってキスカ島に上陸。

艦隊による十分な艦砲射撃を行った上で上陸、極度の緊張により各所で同士討ちが多発、死者約100名、負傷者数十名を出してキスカ島攻略を完了した。

アメリカの戦史家サミュエル・エリオット・モリソンは『アメリカ海軍作戦史』で「史上最大の最も実戦的な上陸演習であった」と皮肉っている。

 

 

●評価

救出艦隊の指揮を執った木村少将の戦術指揮には高い評価が与えられている。

特に1度目の出撃において、その天候では不利だと判断し、各艦長の突入要請を蹴って反転帰投を決断したことが焦点。

当時の海軍の状況は切迫しており、戦力として貴重な艦艇を無駄に動かす結果になることや、欠乏していた燃料を浪費してしまうこと、またそれによる上層部や各所からの批判なども当然予想されることであった。さらに、活発化しつつある米軍の動きから、反転してしまえば二度と撤退のチャンスがなくなる恐れも充分に考えられた。

それでも、作戦成功の可能性が無いと見て反転するという一貫性のある決断力は評価されている。実際、このとき突入を強行していれば、米軍に捕捉・撃滅されていたであろうことは、当時の米軍の展開状況から見ても容易に推察できる。

結果として二度目の出撃で、たまたま米軍が島の包囲を解いた隙を突くことになる。日本に都合のよい偶然が重なったことも事実であり、「奇跡の作戦」と呼ぶに相応しいことは確かであるが、何よりも木村少将の、最初から最後まで一貫した(霧に紛れて救出する)戦術指揮も大きく作用したと言える。

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コメント一覧

  1. hogehoge より:

    どうせなら「軍医のイタズラ」も書いていて欲しかったw

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